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 半年後ーー。


 

 イタリア、ナポリ郊外。

 広大な田園風景の中に建つ父ロマーノの屋敷に、マウリ・バルドーニは呼び出されていた。

 噴水を迂回して広々した前庭を通り、玄関にたどり着く。

 すると、白亜の扉の両側に立っていた自宅警備員がボディチェックを始めた。

 

「よお、久しぶりだなお嬢ちゃん。南の島でバカンスでもしてたか?」

 

 警備員のひとり、エリアがニヤニヤしながら聞いてくる。下卑た汚らしい中年男だ。

 毎度ボディチェックにかこつけてからだをベタベタ触ってくる男にうんざりしながら手を払った。

 

「そんなとこだよ。お前が一生乗れねえようなクルーザーに乗ってきたよ」

「ンだとっ」

 

 拳を振り上げたエリアに背後から制止がかかる。止めたのは同じく父の護衛のアルトゥーロだった。

 黒髪黒目で上背のある四十過ぎの男で、今回の仕事にも同行した相手だ。

 アルと呼ばれるその男は肩書きこそ父の護衛だが、実質的にはマウリの護衛、というか世話係だった。口うるさい母親のようなものだ。

 アルは二人の間に割って入り、間延びした声で言った。


「まあまあまあ、喧嘩すんなって」

「けどコイツがっ!」

「エリア、お前が男もいけんのは知ってるけどさあ、さすがにボスの息子はやめとけって」

「なっ!? んなわけねーだろっ! 誰がこんなじゃじゃ馬……」

「じゃじゃ馬どころか野生の獣だぜぇ、コイツは。なんせケツ追っかけてくる奴のタマにナイフぶっ刺したんだからな」

「は?」

「あれ、聞いてない? アキッレって奴の話。こいつを気に入ってしつこくしてたら病院送りだとよ。ひょ〜、怖いねぇ」

「……」


 それは今回の仕事の少し前の話だ。だが、それをやったのはマウリではない。

 マウリは解離性同一性障害ーーいわゆる多重人格で、その時に出ていたのは最も凶暴な人格であるラザロだった。

 ラザロはバイセクシュアルだが男に抱かれる趣味はないらしく、しつこく尻を狙ってきたアキッレとかいう男を病院送りにしたという。

 口止め料を渡す等その後処理をしてくれたのがアルだった。


「ま、タマが大事ならこいつには近寄らないことだ」


 アルがそう言い終わったとき、扉が開いて館の主が出てきた。

 出てきたのは白髪で地味な容貌の中背中肉の男ーーマウリの父ロマーノだった。

 

「よく来たな。ごくろうだった」

「なんなんだよ帰国早々。アメリカで大仕事してきたんだからちょっと休ませろよ」

「まあ、それは中で話そう」

 

 ロマーノに顎でしゃくられ、マウリは二人を置いて中に入った。そして仕事のことを思い出しながら玄関のエントランスを進む。

 米国は酷いところだった。至る所でゴミが溢れかえり、下水の臭いがし、街角には薬の売人と娼婦が立っているような街だった。

 マウリはそこで依頼された米国下院議員を『処理』し、帰国したところだった。処理というのはつまり殺すということだ。

 それはライバル議員からファミリーに来た依頼だった。米国でも名の知れたゴミ処理係、すなわち殺し屋のマウリが名指しで指名されたのだ。

 マウリは熟練した殺し屋であり、このように国内外から来た依頼をこなして生活していた。

 血族主義のバルドーニファミリーにおいてドンの末弟ロマーノの息子であるマウリは本来跡継ぎ候補の一人で、他の候補者の誰も彼のような汚れ仕事をしている者はいない。だが養子だったので実質的には後継者として認められておらず、こういうしょうもない仕事ばかりが回ってくるわけだった。

 そして今回もその匂いがする。面倒ごとの匂いだ。

 わざわざ屋敷に呼ぶほどの用など、正直厄介ごとの匂いしかしないから帰りたい。

 マウリはそんなことを考えながら赤い絨毯じきの玄関ホールを抜け、螺旋階段を上がった。

 そして廊下を進み、屋敷東側のゲストルームに到着する。

 そこで違う可能性に思い至って口を開いた。

 

「なんだ、また子供じゃねえだろうな? あれはごめんだぜ」

 

 父は生粋の変態だった。子供が好きなのだ。

 慈善家のふりで引き取った孤児たちは屋敷の奥にある別館に「ストック」され、玩具にされている。

 だからその辺りには極力近づかないようにしていたが、時たま「お遊び」に強制参加させられるので辟易していた。

 父のことは基本的に尊敬しているが、子供で遊ぶ趣味だけは心底理解できない。

 

「まあ、そんなようなものかな。どこへ行く?」

 

 踵を返したマウリに背後から声がかかる。

 

「その趣味に付き合う気はねえ。毎回言ってるだろ、嫌なんだよ。仕事なら携帯に連絡くれ」

 

 すると父はマウリを見つめて呟くように言った。

 

「惜しい、実に惜しいことだ……。これほどに美しいのに大人になってしまうとは」

「もう帰る」

 

 うんざりしてその場から離れようとしたマウリの肩に手がかかる。

 足を止めて振り向くと父は言った。

 

「冗談だよ。安心しろ、彼は成人している。わしの食指は動かんよ。お前はどうか知らんが」

「誰だ?」

「九龍(クロン)幹部のミスター・ハタケヤマからのお預かりものでね。丁重に扱うよう言いつかっている。彼の息子だ」

 

 九龍は二十五年ほど前にできた香港の新興マフィアだ。

 香港拠点なので当初はほぼ関わりがなかったが、最近欧州にも勢力を拡大していて、ファミリーからの心証は良くない。

 そんな組織の幹部の息子をなぜ預かることにしたのか。

 

「で、俺と何の関係がある? お守りはごめんだぜ」

「まあそう急くな。話は彼を紹介してからにしよう」

 

 そう言って父がゲストルームの扉を開ける。そこには、東洋人の青年がいた。

 艶やかな漆黒の髪に白い肌、そしてどんな男も女も幻惑しそうな黒曜石の瞳。

 東洋人にしてははっきりした目鼻立ちは完璧に左右対称に整っていた。四肢はすらりと長く、だが華奢というほどでもなく背丈は百七十五センチのマウリとほぼ変わらない。

 特別女っぽいわけでもないのに立ち居振る舞いが優美で、まるでプリンセスのようだった。

 それに見惚れていると、父が英語で紹介する。

 

「こちら、シン・ハタケヤマさんだ。しばらくここに滞在することになった」

「誰?」

 

 その問いに本人が流ちょうな英語で答える。

 

「九龍東アジアブロックを統括しているコウジ・ハタケヤマの息子です」

「ハタケヤマ? どっかで聞いたような……」

 

 そう言って記憶を辿る。

 やがてナポリの社交場で噂になっていたことを思い出す。

 誰かが日本を訪れた際に出会い美しさに感銘を受けたと話していた。「東洋の黒真珠」とか評していたような気がする。

 確か五、六年前の話だ。

 その頃は議員をしていたはずだが、もう引退したのか。

 

「ああ、『東洋の黒真珠』か。へえ、噂にたがわず綺麗なツラしてんな」

「くれぐれも手は出すなよ。大事な預かり物だ」

「そんな趣味ねえよ」

「ほう……カレルリ侯爵のお家に入り浸っている者とは思えん言葉だな」

 

 カレルリは地元の名士で、かつ変態だった。毎週のようにいかがわしいパーティを開いているのだが、その男性限定の回にかつてマウリが参加していたのを父は知っていた。

 参加といっても見ているだけだったが、側から見てそうは見えないだろう。だから男が好きだと思われている。だがそれは事実ではなかった。


「うるさい! あれは仕事だったんだよ。それにもう行ってねえ」


 苛々と言ったマウリに怖じた様子もなく、シン・ハタケヤマが椅子から立ち上がり、微笑んで握手を求めてくる。優美で体の芯がしっかりしている立ち居振る舞いだった。

 何かしらの武道をやっていたのは間違いない。だが殺気というものが微塵もなく隙がありまくりである。こちらの世界にいる者特有の匂いが全くしないのだ。

 この男は本当に九龍のメンバーなのか、という疑問が湧き上がってくる。

 

「どうも。で、なんなんだよ?」

「お前に依頼があるとのことだ」

「依頼?」

 

 父が頷いた。

 

「人質の救出だ。拉致されたご友人を助けたいのだとか。自由革命同盟の奴らがバックについてる日本人に監禁されているらしい」

「自由革命同盟?」

 

 マウリは顔をしかめた。

 自由革命同盟とは、英国拠点のテロ組織だ。

 明確に敵対しているわけではないが、爆弾という卑怯な武器を使い、市民を巻き添えに犯罪行為を繰り返す組織の評判は、ファミリー内では悪かった。

 ファミリーでは、基本一般市民に手を出すことは禁じられていたからだ。

 シンは頷いて英語で補足した。

 

「その代わりに欧州での銃器の販路をいくらかお譲りするという条件で、受け入れていただきました」

「ちょっと待て、受け入れたって……聞いてねえ」

 

 それに父が言う。

 

「いなかったからな。長老会議で話し合って承諾した。特別にお前にお願いしたいということだからよろしく」


 長老会議というのはドンとその弟二人、ガリレオと父ロマーノの会合の場だ。

 ファミリーで顧問(コンシリエーレ)という職に就くガリレオとロマーノはドンに次ぐ権力者で、この長老会議で重要事項が決定されることも少なくなかった。


「は? 何で俺?」

 

 そう聞くとシンが理由を説明する。

 

「ご高名はかねがね伺っておりましたので。どんな依頼も成功させるとか。ぜひお願いしたい。販路の他に個別に成功報酬もお支払いします」

 

 ご高名、というのは殺し屋としての評判のことだろう。

 国内外問わず殺しの依頼を請け負うマウリの悪名は知れ渡っている。

 どうやらその噂を聞きつけての依頼らしい。

 しかし、今回は単純な殺しではない。人質の救出をやったことがないわけではないが、かなり神経を使うし慎重さが求められる仕事だ。

 はいそうですかと安請け合いできるものではなかった。

 

「で、そいつはどこにいるんだ?」

「それが……明確な場所はわからないのです。ただ、自由革命同盟の勢力下の地域であろうということしか。調べようとはしたのですが、なにぶんこちらの事情には明るくないもので。それで手をお借りしたかった次第で」

「その下調べまでしろって? 虫が良すぎねえか? 俺、やりたくねえ」

 

 すると父がぴしゃりと言う。

 

「長老会議で決まったんだ。つべこべ言わずにやれ」

「だいたい何で俺なんだよ? そんな面倒くさいことやりたくねえ」

「お願いします。どうか……」

 

 懇願する美しい男に、不意に嗜虐心が刺激される。マウリは、唇の端を上げて言った。

 

「じゃあ、テストをパスできたら考えてやるよ」

「テスト……?」

「またくだらんことを……」

 

 呆れる父を無視して続ける。

 

「その人質の救出ってのは、要は閉じ込めた奴を殺せってことだよな? 自分の手は汚さず殺ってほしいと。だったらお前も同じことをしろ。殺しの依頼がわんさか入ってこっちは忙しいんだよ。それを代わりにやってくれるんなら考えてもいい。お前だって九龍なわけだし、そのくらいできるだろ?」

 

 そう言ったとたんに父がイタリア語で言った。

 

「それは無理だ。こっちで何かあった時には九龍と戦争になる。今ファミリーにそんな余裕はない」

「じゃあやらねえ」

「まったく……駄々をこねるな。子供みたいだぞ。それに見たところこの子は人を殺したことがなさそうだ」

「だから言ったんだよ。面白そうだろ?」

 

 すると、父が顔をしかめた。

 

「わしの趣味をどうこう言える立場か。まあ仕方ない、そんなにやらせたいなら地下の奴を使え。聞きたいことは聞き終わった」

「お、それ名案」

 

 ここでマウリは英語に切り替えてシンに言った。

 

「喜べ、テストは簡単になった。やるか?」

 

 その問いに、逡巡したのちシンが頷く。

 マウリはシンを促し、部屋を出た。

 階段を降り、地下に続く廊下を進みながら言う。

 

「お前にはこれからテストを受けてもらう。パスできなければ依頼は受けない。そのときは諦めておうちに帰ってパパによしよししてもらうんだな」

「て、テストって何の?」

「見りゃわかる」

 

 マウリはそう言って地下室の扉を開けた。