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一週間後――。

 その日は夕方から夏大県予選の準々決勝が行われていた。
 昨今は酷暑の夏が続くため、試合は基本早朝二試合、夕方一試合で組まれている。日中はあまりに暑すぎて熱中症の危険があるからだ。
 年々暑くなる夏にたびたび議論が出ながらも結局は変わらなかった日中野球の慣例が崩れたのは、高校野球に女子の部ができてからだった。
 女子は夏の暑さに耐えられないだろうという配慮らしい。
 それが科学的根拠に基づくかはさておき、全選手の負担が減ったという意味では良い改革だった。
 そんなわけでゲームは早朝、または夕方から始められる。
 今日の試合は夕方からで、十七時スタートだった。

 スコアボードの栄徳高校の1回裏の欄は、すでに1と表示されている。
 初回、1本のヒットも許さなかった丹波は、2回になっても相変わらず好調に投げていた。
 リリーフは榛名の予定で、今日、香坂の出番はない。
 だからベンチ入りもせずに観客席から応援していた。
 投手が何人もいる栄徳ではこういう処遇は珍しくない。
 だが今回に限っては何かが違う気がした。
 監督からは、完投はないものの初戦から3回戦まで全試合で登板のあった香坂を休ませるための丹波起用だと説明されていたが、それは疑わしいものだと思っていたからだ。
 丹波は明らかに投手陣の中で別格だ。次期エースは彼女だろう。

「丹波すごいよねえ」

 香坂の考えを読んだかのように、隣に座る百合丘まさみが感嘆した。

「あんなんに入ってこられたら、二軍のうちらは立つ瀬ないよ」
「私だって焦ってるよ。あの子打撃もいいしさ。あーいうのをエースの器っていうんだろうなあ。気も強いし。榛名も私みたいなのより丹波がライバルのほうがいいだろうなあ」
「香坂ってもうエースあきらめてたの?」

 驚いたように聞く百合丘に、香坂は投げやりにうなずいた。

「もうとっくにあきらめてるよ。私はもともとその器の人間じゃないしさ」
「そっかあ、じゃあうちと同じだね」

 百合丘ののんびりした口調に、自然と気持ちが和らいでいった。
 人を安心させる能力でもあるのだろうか、と思いながら再び前を向く。高校入学以来、どんなに人に会いたくない日でも隣にいることを許せた相手はこの人物だけだった。
 重い打音に、香坂は眼を見開いた。丹波はついにヒットを打たれたようだ。
 それでも動じた様子もなく再び構える後輩を眺めながら、隣に座るチームメイト兼、クラスメイトについて思いを巡らせた。

 百合丘まさみは、身の丈と言うものをよく知っている人間だった。
 彼女は普通の高校の野球部では十分通用する実力を持っていたが、特待生制度で他県からも選手を引っ張ってくるような栄徳高校で自分が一軍になるのは難しい、ということを初めから理解していた。
 そのため、早い段階で裏方に回ることを決め、それまで投手をやっていた経験を生かし、打撃投手としてチームに貢献していた。

 百合丘はもともと野球のために栄徳に入ってきたわけではないらしいからまだしもだが、それでも、一軍より出られる試合数は少ないし、注目されないし、活躍している下級生を見なければならないしで悩むこともあるだろうに、本心を隠すのがうまいのか、たんに能天気なのか、思い悩む姿を見せることがなかった。
 丹波にナイピッチー!と叫ぶ百合丘を横目で見ながら、自分みたいな人間は、一生彼女を理解することはできないだろうな、と思う。

 理解できないと言えば、現在、金沢と共にチームを支えている正捕手・澤のことも今一つ分からなかった。リードはうまいし、肩は強いし、打てるし、投手を立てるし、名捕手と言えば名捕手なんだろう。
 しかし、付き合い始めて一年半がたった今でも、彼女の考えていることが分からなかった。

 やる気がないように見えるのに対戦相手のデータを完璧に把握していたり、普段は穏やかなのに時折手がつけられないほど頑固になったり、突然ぷっつり切れたりする――澤樹という人物像は未だはっきりしてこなかった。
 ただ一つだけ確かなのは、彼女が、幼馴染みの榛名玲に異常に執着しているということだった。
 澤は毎日弁当を作るほど榛名のことが好きだ。そして、好きすぎるあまり、相手に何をされようと受け入れていた。

 香坂は個人的には、澤が「そういう意味」で榛名のことが好きなのだと思っていた。そう考えるとすべてのつじつまが合うからだ。
 同学年に「親衛隊」までいると噂の美貌なのにもったいない気もするが、まあ人の好みはそれぞれということだろう。榛名は並みの男子よりイケメンだからわからなくもない。

 澤はそうやって榛名が好きなことを隠そうともしなかったが、一方榛名の方はだいぶ迷惑そうだった。
 話しかけられてもいつも適当に流しているし、当たりも強い。
 だがそのわりには投球練習は澤としかしないし、弁当は貰うし、自宅通学の澤の送り迎えまでしているらしい。
 部内では二人が付き合っているのでは、と言う人さえいる。
 なんというか空気感が特殊なのだ。だからそれがわからなくもない。
 香坂は、二人がそういう関係だとまでは思っていなかったが、おそらくは仲が良すぎていろいろ言われたくない榛名があえてそっけなくしているのだろうと思っていた。
 中学で嫌な思いでもしたのだろう。

 そうやってぼんやり物思いにふけっているうち、試合は進んでいた。
 やがて丹波に代わって榛名が出てきて、マウンドの土を足でならし始める。
 最終調整をする榛名の球を受ける澤を見ながら、このバッテリーがいれば甲子園に行ける、と確信した。


 試合は栄徳高校の勝利で幕を閉じた。
 榛名と丹波が好投して相手打線を2点に抑え、8対2で桜木高校に勝ったのだ。そして部は準決勝進出を決めた。

 榛名はその日の夜、寮の自室で上段の羽生のベッドの天板を見つめながら、試合を振り返っていた。
 先発の丹波は今日はコントロールが安定せず、予定より早めに四回で降板した。
 女子とは思えない豪速球が持ち味の丹波の課題はコントロールとムラっ気があることだ。
 ハマるときにはハマるが、調子が悪いと炎上しがちなのだ。
 それでリリーフの榛名は早めにマウンドに上がったのだが、澤は試合後そのことについて丹波のせいで球数が増えたとかグチグチ言っていた。
 これが澤の何よりの問題点である。
 正捕手なのに榛名を贔屓し、他の投手を敵視しているのだ。
 世渡りが上手いから普段そんなことはおくびにも出さずに他の投手ともうまくやっているが、本心はこうなのだ。
 これは正捕手としてあるまじき態度だった。
 いい加減改めて投手の育成も手伝ってやれと言っても、必要ないとばかりに投手育成は他の捕手に投げっぱなしである。
 澤には甘い監督も注意しないので、やりたい放題だった。

 そういう部分を含め、やはり澤のことはどうしても好きになれない。
 投手だった頃はそんなことなかったのに、捕手にコンバートしてから明らかにおかしくなった。
 やはり澤は投手をやるべきだったなと思う。
 そして榛名とは別の高校に行くべきだった。
 パニック障害も榛名がいなければ治っていたのではなかろうか。
 澤が、その死を目撃し、自分が殺したと思い込んでいる人間の娘と始終顔を合わせている環境が精神衛生に良いわけがない。
 澤が榛名に執着するのも罪の意識からだ。勝手に償わなければならない、とか思い込んでまとわりついてくる。
 しかしいい加減やめてほしかった。
 それにしても、なぜ澤が事故の事を7年も引きずっているのかわからない。彼女が事あるごとにあの事故のことを気にするせいで、こっちは嘆く暇もなかったというのに。

 榛名は、母親がいなくなった日を思い出す。昨日まで当たり前に隣にいた存在が消えるという経験は、榛名にとって耐えがたいものだった。
 ずっとそこにいると思っていた者がいなくなるということの絶望は、筆舌に尽くしがたい。
 これから一生、母と話すことも、一緒にご飯を食べることも、野球の試合の後に一緒に帰ることもないのだ、と思うと、とてつもない悲しみが心を覆い尽くし、そのあまりの重量にしばし動けなくなるほどだった。
 母に聞いてもらった我がままの数々をいちいち思い出し、なぜもっといい娘でなかったのだろう、もしあの時こうしていれば……もしあの時こうしていなければ……とイフの地獄に陥って、どうにも身動きが取れなくなった。
 誰を恨んだこともないが、神だけは恨まずにはいられなかった。

 自分はなぜ、こんなにも早く、母を奪われなくてはならなかったのか?
 何故自分は母親に、部活での活躍を見せる権利も、恋人を紹介する権利も、老いゆく彼女を案ずる権利も与えられなかったのか。
 何故、なぜ、なぜ、と答えのでない問いだけが、幾年も榛名の頭の中で回りつづけた。
 その問いに対する答えが与えられることは、おそらく一生ないであろうことをうっすらと予感しながらも、彼女は未だ問うことをやめられなかった。

 たまに夢を見る。試合中の夢だ。
 榛名は憧れの甲子園のマウンドに立っていて、チームは勝っている。榛名の真正面、ホーム側の客席の前列には、応援に来てくれた親戚が並んでいる。
 祖父母や叔母夫婦、母、そして澤の姉と両親たちがこちらに向かって手を振っている。

 しかし気が付くと、榛名の母親だけが忽然と姿を消しているのだ。心配になって客席に走っていって探してもどこにもいない。
 会場の外に出ると、とたんに辺りが暗くなって、体が鉛のように重くなり、走ろうとしても走れなくなる。そこにあったはずの並木道や、散歩をしている人々は姿を消して、目の前は突如、一面の荒野と化す。

 荒れ果てた大地と赤い空に息をのんで立ち尽くしていると、やがて遠くの方に人影が現れてくる。多分それが母親なのだが、進んでも進んでも彼女には近づけない。
 相手は断崖の淵に向かって歩いてゆく。危険に気付いていないのだ。
 必死に彼女をとめようと叫ぼうとしても、声は出ずに、彼女はついに絶壁の向こうに落ちてしまう。榛名は絶叫し、目を覚ます―――。

 榛名は何かに行き詰まった時や、悩み事がある時は、大低この夢を見た。そして、その翌日はたいてい気分が最悪だった。
 人に当たりそうになるので、極力誰にも近づかないよう心がけていたが、澤は榛名の近寄るなオーラを全く意に介さずにまとわりついてくるので、何度彼女に理不尽な怒りを向けてしまったかしれない。

 大体、澤も悪いのだ、と榛名はため息をつく。嫌ならやり返せばいいのに、変に受け入れてくれるから甘えてしまう。
 榛名は、澤に甘える自分の弱さも、それを許す澤にもつくづくうんざりしていた。どこかで断ち切らねば、と思うのにきっかけがつかめず、何年もずるずると変な関係を続けてしまっている。

 でも、と榛名は自分に言い聞かせる。
 まさか一生このままということはないだろう。
 大学は別々だろうし、社会人になったら互いの事などすぐに忘れる。そして、それぞれ独立した人間としてそれぞれの人生を歩きだすことになるに違いない。
 榛名は自分にそう言い聞かせて、少しばかり不安が和らいだところで寝る態勢に入った。目をつぶると、澤の顔が瞼の裏に浮かんだ。彼女は、楽しそうにスコアブックを眺めていた。
 そういう姿を見るのは嫌いではなかった。見るのだけは。
 榛名は、わずかに頬を緩め、やがて打ち寄せてきた睡魔に身を任せて眠りに落ちた。