その年の春、信は大学生になった。一応森の指示通りのところのいわゆる名門校に合格し、大学に通うことになったのである。
周りは皆信より若く、初々しく、汚いことなどなにひとつ知らないような顔をして笑いさんざめいていた。
若干興醒めした感もあったが、並木が美しいキャンパスとか、元気にサークル勧誘をする学生とかを見るのは悪くなかった。
なにより嬉しかったのは、市民図書館の比ではない蔵書数を誇る迷路のような大学図書館で、これが手に入っただけでも入学した甲斐があるというものだった。
信は特にサークル活動をするつもりも、特別親しい友人を作る気もなかったので周りとの付き合いは適当にして、基本的には単独行動をしていた。
学校の雰囲気はよく、信が以前通っていた私立校のような、栄養をたっぷり与えられてすくすく育ったような子たちばかりだった。
だからこそ彼らとの間には隔たりを感じ、交友関係はますます希薄になった。
なぜならば、信にはそのような青春は与えられなかったからだ。
囚われ、檻の中で苦しむだけの日々だった。
玉東は一見華やかな場所に見えるが、実態は全く違う。
借金を背負った者や、なんらかの依存症や精神疾患の者や、犯罪組織に拉致され売られた者が売春する場所なのだ。
そこに美しさなどない。ただただ同じ人間を食い物にする醜い欲望があるだけだ。
そんな場所で人生の黄金時代を過ごすことを誰が望むだろうか。
確かに稼ぎはした。同年代の大半の人間よりは貯金もあるだろう。
だが、代わりに地獄を見た。一生見たくもないものを、人間の業の深さと醜さを見た。慰謝料として稼ぎの十倍もらっても足りないくらいの経験だった。
だから、無条件にそれを免除された人達を見るとどうにもやるせなくなる。
彼らが悪いわけではないことはわかっている。それでも感情は抑えられなかった。
その信の思いに呼応するようにして、玉東時代の客から連絡が来たのはそんな折――入学から3カ月余りが経った、7月の終わりだった。
相手は馴染み客だった政治家、古賀だった。
◇
その日、家でゆったり読書をしていた信は知らない番号からの電話に一瞬躊躇してから電話を取った。
「……はい」
『菊野、久しぶりだね。古賀だけど、覚えてるかい?』
久しぶりに源氏名で呼ばれ、奇妙な気持ちになる。
信はスマホを握りしめ、椅子に座り直して答えた。
「……お久しぶりです。もちろんです」
『やっと連絡先がわかったよ。電話の一本もくれないなんて、つれないじゃないか』
「すみません……」
『まあご主人様がいるんじゃ仕方ないかな。ちょうど会期も終わって暇なんだ、食事でもどうだい?』
「急に言われましても……」
古賀は見た目も中身も古狸のような男で、駆け引きを愉しむタイプだった。
だから誘いにすぐに応じるべきではない。手に入りにくければ入りにくいほどに燃えるタイプなのだ。
森からはこの政界の重鎮の懐に入るよう言われていたので、そのように対応した。
『ふうん、忙しそうだね。久しぶりに出てみたら外の世界も新鮮なんじゃないかい? 玉東は君の天下だったけどね』
「フフ、そんなことないですよ。外は……楽しいです」
『それはいい。そういえばK大の政経なんだってね。実は私もそこのОBなんだが、どうだい、学校は』
「授業は面白いです」
『ふうん、政治に興味があるタイプだとは思わなかったが……。吾妻先生の授業は受けたことあるかね?』
吾妻教授は政治学を教えている。
「はい。今ちょうど受けています」
『あの人の授業はなかなかユニークで面白いだろう? 実際面白い男だよ。型破りで、自分の専門にあまりこだわらなくてね』
「お知り合いで?」
そう聞いてほしそうだったので聞いてやると、相手は控えめに肯定した。
『同期でね。学生時代はとんと勉強しなかったのに今じゃ学部長だ。いったい何がどう転んでそんなに出世したのやら。……っと、長々話してしまったね。じゃあまあ君の都合がいいときでいいよ。気が向いたらメールでも送ってくれ』
「そうですねえ……」
『政治に興味があるんなら来て損はないよ。ああそうそう、それから、希望者は山といるんだ。君とは付き合いも長いから優先してあげたいと思うけれど、時機というものがあるからね……まあ、君次第だ』
「わかりました」
信がそう言うと、電話は切れた。古賀は昔と変わらず押し引きがうまかった。
信が政界に興味を示していることを調べ上げた上で、大学にも業界にもコネがあることを匂わせ、早く連絡をよこさなければ他に先を越されるぞと暗に脅す。
生き馬の目を抜くような政界で長年やってきただけあった。
信はため息をついて通話の切れた携帯を見つめると、古賀の番号を電話帳に登録した。
◆
古賀への返事は、10日ほど焦らしてからすることにした。信が電話したとき、相手は平静を装っていたが、焦れていたのがわかる程度には早く食事の約束を取りつけられた。電話の3日後だったのである。
信がそのことを報告すると森はご満悦で彼を抱き、しっかりやってこいよ、と言った。
1回目の食事ではほぼ手を出されないだろうと確信していたが、万一の場合に備えて信は念入りに体を磨き上げ、古賀との再会に備えた。
「古賀先生」
「見違えたね。一瞬誰かと思ったよ。髪切ったんだね」
先に指定された料亭に到着し、待機していた信は、入ってきた古賀に腰を上げてあいさつをした。
「ええ、ばっさりと。ご無沙汰しております」
「まあまあそんなかしこまらないで。洋装も似合うなあ、君は」
いろいろ迷って信が選んだのは、絹地の白いシャツに細身の黒いズボンという無難な格好だった。
前髪はいつものようにちょっとだけワックスをつけてわずかに横に流し、寝ぐせを完璧に直してきてある。
特別短いわけではないが、一般男性並みに短くなったこの髪に何を言われるかと若干心配していたが、杞憂だったようだ。
古賀は信を上から下まで見たのち、息をついて向かい側に腰かけた。それに倣って腰を下ろすと、さっそく先付けが出てきた。
古賀は手で鷹揚に箸をつけるよう指示すると、口を開いた。
「ずいぶん久しぶりだなあ。もう2年位になるかな。元気そうでよかったよ」
「先生もお元気そうで何よりです」
「しかし大学にやるなんて森さんもずいぶんと甲斐性がある。うまくいっているようだね」
「ええ、おかげさまで」
信は相手の目を意識しながら先付けを口に運んだ。控えめに口を開いて咀嚼する。古賀の反応を見るに、まだ信に興味があるらしかった。
これじゃ計画は続行だな、と内心ガッカリしながら箸を置く。
そのときちょうどいいタイミングで温野菜が運ばれてきた。
信は添えられていたソースをつけて食べながら、相手のようすを窺った。
「それはよかった」
「まあ、住めば都といいますか……」
「店でストをやろうとしたんだって? 君はまったく面白い。だから気に入ってるんだ。綺麗な子ならいくらでもいるがね、こういう知性としたたかさを兼ね備えた子は君をおいていなかった」
「買いかぶりすぎですよ。浅はかでした。失敗してこのザマですし」
「まあ、なんにせよ社会に関心をもつのはいいことだ」
そう言って古賀は満足げに笑った。信は、こういうところが好きなのだ、と思った。
自分の武勇伝を披歴するだけでなく、こちらを尊重してくれる。実のある会話ができる相手として期待し、認めてくれる。
ただの快楽の道具扱いをする政治家も多い中で、古賀はかなりの良客だった。
彼の容姿をあげつらって絶対に相手をしたくない、と言う同僚もいたが、顔の美醜があまりわからない信にとっては関係なかった。
それに気前がよく、かなりの太客だったので厚遇していた覚えがある。
「しかしそれはそれとして、君はあまり政治に興味がないタイプかと思っていたよ。付き合いで話はするが、あまり楽しそうではなかったからね。どちらかというと芸術分野の方が好きじゃなかったかな?」
「ええ、当時は。ただ外に出てきて少し考えが変わったといいますか」
「そうだね。見えるものも全然違うだろうからね。そうか、君がねえ……」
古賀が感慨深そうに髭のはえた顎を撫でた。
中庭のししおどしが、カコン、と揺れる。外ではうるさいほどに蝉が鳴き、夏の風情を醸し出していた。太陽は高いところから照りつけている。
のどかだなあ、と思いながら次に来た天ぷらに手を付けると、相手が言った。
「よかったら、事務所に来てみるかい? 夏休みで、ちょうど時間もあるだろう」
「どうしようかな……」
信は思い悩むような表情を作ってためらっているフリをした。
「ちょうどインターンを募集してたんだよ。そんなに難しい仕事はないから大丈夫。いい経験になると思うよ。これからそちらに進むにせよ、そうでないにせよ」
電話で脅すようなことを言っていたわりに、対面で会った古賀は物腰柔らかだった。あのときはちょっと気が立っていたのかもしれない。
それか、飴と鞭を使い分けていいように転がされているのか。
「……では、少しだけ」
渋々頷くと、相手は笑顔になった。
「それがいい。私も次の国会までは少し時間を割いてあげられるからね。いろいろ教えてあげるよ」
「よろしくお願いします」
「しかし君は本当に変わらないな。本当に2年も経ったのかと思うくらいだ」
そう言って古賀がじっとこちらを見つめてくる。信はちょっと恥ずかしがっているフリをして目を伏せた。
「そんなことないですよ。先生こそお変わりにならない」
「いや、私はもう完全にジジィだよ」
この時点で食事はほぼ終了していた。無粋な政治家相手だったら相手にすり寄っていくタイミングだ。
しかし古賀はプライドが高いので再会早々手を出すなどということはしない。
こちらから誘えばその程度の男と思われたのかと気分を害すだろう。
だから信は目を伏せたままその場でじっとしていた。
「菊野は本当に……可愛いな」
「今はもう信です。天野信」
信はそこで目を上げて相手と視線を絡ませた。
「信……それが本名かね?」
「はい。信じるの信、です」
「いい名前だ。信、か」
古賀は信が白銀楼に在籍中、一度も本名を聞かなかった数少ない客のうちのひとりだった。
あくまで廓遊びと割り切って通っていた粋な男だ。
当時、こういう客ばかりだったらどれだけ楽か、と何度も思っていたのを思い出した。
「何か先生に呼ばれると、不思議な感じがします」
「不思議? 嫌じゃなくて?」
「いえ、嫌だなんて……。あの頃が懐かしいです。いろいろ教えていただいて、おかげで勉強させていただきました」
「教えるってほどじゃないよ。他の政治家たちの悪口言ってただけだからね」
古賀はそう言ってカラカラ笑い、立ちあがった。
「さ、私はそろそろ行かなくては。会えてよかったよ。インターンの話は通しておくから、週明けくらいからおいで。君がくればきっと事務所も華やかになる」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
個室から出ていく政界の重鎮を、信は腰を折って送り出した。そして安堵の息をついて、成功かな、と思った。
◇
こうして本格的に森のいう『ゲーム』を始めた信は選択を迫られた。秋津と誠実に向き合うか、否か、だ。
そもそも彼に森の存在は話しておらず、最初から世間的には二股状態で付き合い始めたので今さら誠実にもへったくれもないのだが、これがひとつの機会だったことは確かだった。
古賀と会うようになればいずれ間違いなく相手をせねばならなくなる。
売春窟に長くいたせいで何とも思わない相手と肌を合わせることに抵抗感はもはやないし、それによって何かが変わるとも思っていないが、世間一般の人がそうでないのはもちろんわかっていた。
一般的には、性的な行為は好きな人としかしてはいけないことになっているのだ。だから当然、秋津は森や古賀のことを知れば信の背信とみなし、激怒するだろう。今までバレなかったのが奇跡のようなものだ。
だからそろそろ潮時だった。秋二の不在で苦しんだ時期は終わった。時間と秋津とが信の心を癒してくれたのだ。
秋津と別れるのは名残惜しいがここで断ち切らねばいつか最悪の形で関係が破綻することになる。それは嫌だった。
だから信は古賀と再会した翌週、秋津に別れを切り出した。
「隆之さん……ちょっと、話したいことがあるんだけど」
このところ思い詰めたような顔をすることが多くなった恋人に声をかけると、秋津はパソコンから顔を上げて隣に腰かけた信を見た。
「……なに?」
「大事な話」
「話ならおれもある」
秋津はそう言ってノートパソコンをパタンと閉じてテーブルに置いた。
「あ、じゃあお先にどうぞ」
「………別れてほしい。もう、耐えられないんだ」
言おうとしていたことを言われた信はポカンとした。
秋津は目を伏せて、こぶしを握りしめながら続けた。
「もう、無理だっ……誰かの代わりになるのは」
「………!?」
秋津の言葉に、信は絶句した。
息を呑んで相手の出方を窺うと、恋人は血を吐くように言った。
「秋二、だろ? おれはそいつの代わりなんだろ?」
「ッ………」
秋津の前で秋二の名前を出したことはない。少なくとも、意識がある間は。とすると……。
「気づいてなかったかもしんないけどっ、寝言でアイツのこと呼んでたんだよっ……! あのときだってそうだった……おれが信に告った日っ……。あの日だって、アイツのこと呼んでたっ……!」
涙をにじませる秋津に、もう何も言えない。信はただただ、男の苦しげな告白を聞いていた。
「だけどっ、いつかおれを見てくれればそれでいいって、思っ、てっ……うぅっ……。でもっ、信はいつまでたってもっ、おれのことはっ、見てくれなかっ……たっ……! おれの、後ろにいる人しかっ……うっ……。だからもう、解放してくれっ……。もうこれ以上は、耐えられない……。無理だっ……」
「………ごめん」
そう言って頭を下げると、秋津は声を荒げた。
「否定しないのかよっ……!?」
「………」
「信にとってのっ、アイツって何なんだよっ……!? 秋二って、誰なんだよっ……?」
その問いに、信は絞りだすように言った。
「私の……唯一の人」
「ッ………!」
「もう手の届かないところに行ってしまったけど。海外に、行ってしまった。何も言わずに。それから、隆之さんが現れて……」
「代わりにしたってことかよ? マジで最低っ……!」
「本当にごめん」
信は深々と頭を下げて謝罪した。
「………まだ、そいつのこと好きなのか?」
「うん。たぶん一生……」
そこで秋津は手を振り上げた。殴られると思って目をつぶったが、衝撃はやってこなかった。
目を開けると、秋津は振り上げた手をひっこめ、立ちあがった。そして呟くように言った。
「部屋にあるおれのものは、処分していいから」
「でも、服とか……」
「いいっつってんだろ!」
気に入っていた服があったのを思い出して言ってみたが、秋津はそう叫んで信に背をむけた。
そして、そのまま部屋から出ていった。
「………」
残された信は呆然とその場に立ちすくみ、秋津の出ていった方向をしばらく見つめていた。
◆
その後秋津とは完全に没交渉になった。相手から連絡がくることも、こちらから連絡することもなく、縁が完全に切れたも同然だった。
信が彼を秋二の代わりにしていたことが最初からバレていたことはショックだった。それによって一年半以上もの間秋津が苦しんでいたことに気づかなかった自分の鈍さも。
こんな形で終わることは望んでいなかった。
自分がどれだけ秋津を傷つけたか。それを考えるだけで胸がひき絞られるように痛む。
自分の傷が癒されている間、秋津は出血し続けていたのだ。こんなに残酷なことはなかった。
しかしだからといって秋津だけを見ることもできなかった。頭は簡単に整理できるが、心はそうはいかない。
信が見ていたのはあくまで彼を通して見える秋二であり、秋津ではなかった。どんなに忘れようと思っても、忘れることはできなかった。
それがわかった1年半でもあった。
信は、もう金輪際こんなことはやめよう、と決心し、仕事の方に集中することにした。
そうしてその週からインターンとして古賀の事務所に通い始めたのだった。