約一ヶ月後ーー。
ドン、というすごい音がして、信は思わずふりむいた。続いて苦しげな唸り声がする。彼は若干乱れた髪を直し、身だしなみのチェックを終えると音のした方へ歩いていった。
そこは、料亭の男子トイレの個室だった。古賀との会食でよく利用する店だ。
この長老のような政治家と再会して二カ月あまりが経っていたが、信はまだ手を出されていなかった。
どうも最近そういう気にならないらしい。
古賀は歳には敵わんね、と笑って、でも君がいると飯が美味いよ、と言ってくれた。
そして、何かにつけ食事に誘ってくれる。
古賀の話は面白いので断る理由もなく、こうして食事に来ているわけだった。
こういう関係も悪くないな、と思いながらトイレを出ようとしたとき、再び音がした。
信は周りを見た。しかし、他の人たちは皆どうでもよさそうに用を済ませて出てゆく。
信は迷った末に行動を起こすことにした。
「すみません、大丈夫ですか?」
そう言って個室の扉をノックする。返事はなく、再び大きい物音がしただけだった。
信は再び戸を叩いて聞いた。
「ご気分大丈夫ですか?」
持病の発作でも起こしたのかもしれない、と焦りを感じながら応答を求めると、不意に扉が開いた。中から姿を現したのは章介と同じくらい上背のあるスーツ姿の男だった。
体調が大丈夫かどうか顔色を見ようとして目線を上げた信は驚きのあまり、ついこうつぶやいてしまった。
「司、くん……?」
「……信くん?」
灰色の顔で出てきたのはなんと幼馴染みの進藤司だった。家が近所で学校も幼稚園から高校まで一緒だった相手だ。
そして、信が初めて付き合った相手でもある。
一線を超えたことはなかったが、それ以外のことはあらかたやっていた。
明るくて、皆の人気者で、まるで太陽のような男だった。
だからこんな顔は見たことがない。
いつも快活だった司の変わりようの方が、再会したことよりも信にとっては衝撃だった。
「大丈夫? 気分悪い?」
すると相手は無言で信を個室の中にひきいれ、鍵をかけた。
何か人に聞かれたくない話でもあるのだろうか、と様子を窺っていると、体をひきよせられていきなりキスをされる。
「ッ……!」
不意打ちを食らった信は動けずになされるがままだった。
やがてキスが終わると抱きしめられる。
「生きてたか……」
学生時代に未完成だった司の骨格は完全に完成され、男のものになっていた。
背も伸びた気がする。
「信くん……どこいってた……?」
司は信の肩に顎をのせたままそう聞いてきた。
あまりに強い力に肋骨が砕けそうだ。
「ちょっと、苦し……」
「ああ、ごめん」
そこで司はようやく気付いたかのようにパッと信を解放した。胸で息をしながら相手を見上げる。
そして聞いた。
「私は家出したことになってる?」
「ああ。けど俺らは疑ってた。信君が何も言わずにどっか行くわけないよなって。何か事件にでも巻き込まれたんじゃないかって調べたんだけど、何もわからなかった。だから、もしかしたらもう会えないかもって……思って……」
そこで司は言葉を詰まらせた。目には涙が滲んでいる。
「そっか……。心配かけてごめん」
「本当に家出だったのか?」
「家出はした。でも突発的なもので……父親に母のことを悪く言われたんだ。それが許せなくて口論になって家から飛び出した。でも戻るつもりだった。だけど戻れなかったーーそんな感じ」
「戻れなかったってどういうこと?」
「それは言わない。知ってもいいことないから」
司は正義漢を絵に描いたような男だ。学生時代もずるいことや不正を許さなかった。
だから本当のことを話せば信を拉致し玉東へ落とした組織、長谷川会に戦いを挑もうとするだろう。
だがそれは非常に危険だった。
「やっぱり何か巻き込まれたんだな?」
「まあ、いいじゃない私のことは。司君こそ顔色良くないけど大丈夫?」
以前とほとんど変わらぬ短く刈り込んだ髪に、若干信に似ているはっきりした面立ち。
見かけはほぼ変わっていないのに、纏う雰囲気は180度変わっていた。
なんとなく陰があるような、すさんだような雰囲気だった。
「いや、俺は……まあ平気。ちょっと腹壊しただけ」
「そっか。それにしても久しぶりだね。十年ぶりとかかな?」
「信君がいなくなったのが高二だから、それぐらいかな」
「びっくりした。まさかこんなところで会うなんて。スーツってことは仕事関係?」
なるべく過去の話題に触れられたくない信は会話を主導した。
「うん、まあ……。しかしこんなとこで会うとはなあ」
感慨深そうに言って天を仰いだ司は、呟くように続けた。
「神様っているのかもな」
「本当に奇遇だよね」
「さっきはいきなりごめん。まさかまた会えるとは思わなかったから」
「大丈夫だよ」
「あとさ……」
司は少しの間迷うようなそぶりをしたあと首を振って、懐から名刺とペンを取り出し、そこに何かを書きつけた。
「これ、私用の番号だから渡しとく。今はあんま時間ねえからさ。気ィ向いたら電話して。今度飯でも食おうぜ」
「うん。あの……本当に大丈夫? ずいぶん顔色悪いけど……」
「ヘーキヘーキ。信君に会ったら何か元気になった。電話、くれよ」
司は名刺を信に渡すと、そう言い残してトイレから出ていった。
信はしばらく懐かしい筆跡を見つめながら、相手の状況について思案していた。