2-4

 信が司と再び会ったのはそれから約二週間後のことだった。
 名刺によれば、司は現在企業勤めをしているらしかった。かつての顧客にも勤めている人が何人かいた大手の食品メーカーだ。 
 信は、企業に勤めるってどんな感じなんだろう、とか、やはり忙しくてストレスが溜まっているのだろうか、とか考えながら再会の日を迎えた。

 指定されたホテルのレストランに赴くと、幼馴染みは既に待っていた。 
 今日は普段着で、紺のジャケット姿だ。
 遅れたことを詫びながら個室に入ると、司は前回よりは若干マシな顔で応じた。

「いいよ。まだ時間前だし。信くんと会うときは十五分前行動が基本だったしな」
「そういえば……」

 個室は座敷で、中央に掘りごたつがあった。床の間には掛け軸があり、室内は畳の匂いがする。
 信は腰を降ろしながら、そういえばそうだったな、と昔を回想した。

 幼稚園の頃から付き合いのあった幼馴染みは司の他に篠宮秀嗣と荒川右京がいる。
 母校は幼稚舎から大学まである私立男子校で、彼らとは一緒に育ったも同然だった。
 だからいつも一緒にいた気がするが、友人三人はいつのころからか、出かけるとなると必ず十五分前に集合して信を待ち構えるようになった。
 そして誰が信の隣を歩くかとか、信からすれば意味の分からない理由でしょっちゅうケンカをするようになった。

 自分のせいで皆の友情が壊れたのでは、と思った信は途中何度か距離をとろうとしたが、それは許されなかった。
 そして時を経るとともに、自分がなんとなく友達扱いされていないことに気づいてちょっと悲しくなったものだ。
 男子校だから仕方ないのかもしれないが、男友達ではなく女の代用品として扱われていたように感じた。

 幼馴染み三人との距離感は、その後も別れがくるまで大きく変わることはなかった。同志や友人としてではなく、崇められる対象としてずっと扱われていた。
 だから実は、白銀楼時代の同僚・章介と一樹は、信が生涯で初めて得た本物の友達だった。

「信君待たせた奴は死刑っていうルールがあったからな」
「はは、なるほど……。もうメニュー決めた?」

 司は頷き、「華」ってやつ美味いよ、と言った。

「来たことあるんだ」
「ああ。この辺は結構来るから」
「じゃあそれにしようかな」
「酒は?」
「何でもいいよ。何かオススメあれば」
「了解」

 司は頷くと、卓上の呼び出しボタンを押して給仕を呼んだ。そして、手慣れた様子で注文をすませた。
 再び二人きりになった空間に沈黙が落ちる。
 何も言わずにこちらを穴が開くほど見つめてくる司に居心地が悪くなり、信は口火を切った。

「いいお店だね」
「そうかな。気取ってると思うけど。まあ、景色だけはいいよな」

 大きな窓の外に広がる景色は文句なく美しかった。
 赤坂の街並みを背景に赤坂御所の緑が広がっている。
 昼に来ても癒されるが、ポツポツとところどころライトアップされた庭園と、その周りを彩る街の明かりが広がる夜景もまたいい。恋人を誘いたいような場所だ。
 秋津と来たかったな、と思いながら、信は相槌を打った。

「本当に。何かちょっと悪いことしてる気になるけど……御所を見おろすなんて」
「信くんは変わらないなあ」

 ずいぶん斜に構えたような物言いをするようになったな、と思っていると、司は目を細めて初めて笑った。
 やっと笑顔を見せてくれたことにホッとしつつ、信は相手と視線を合わせた。

「そう?」
「うん。癒し系とか姫とか呼ばれてたよ」
「え、そうだったの? 知らなかった」

 やっぱりそんな感じか、と思いながら相槌を打つ。
 背が伸び始めたのが高二で玉東へ行ってからなので、学校では小柄な方だった。やはり女扱いされていたようだ。
 司はそこで入ってきた給仕が先付けを置くのを待って、話を再開した。

「姫かぁ。微妙だなぁ」
「いやめちゃめちゃ人気者だったよ」
「そういう人気が出てもね……。司君達もでもそんな感じだったよな。みんなで持ち上げて」
「まあ確かに、それはそうだ」
「私は普通の友だちになりたかったのに……」

 そう恨み言を言ってみたが、司はなんでもないようにバッサリ言った。

「男子校であんなに可愛かったら無理に決まってるだろ」
「なんでまたそういうことを……」

 昔、しきりに信を可愛い可愛いと言っていた司を思い出し、全身むずがゆくなる。
 気恥ずかしいし、外見のことを言われるのはあまり好きではなかった。

「ま、今は綺麗って感じだけど。しかし背ぇ伸びたよなあ」
「そういう家系だって言っただろ? もう姫じゃないし、可愛くないよ」
「そんなことない。この間の反応は可愛かった」

 そう言って流し目をよこした相手に顔が熱くなる。いろいろなことを経験してきて、そんなセリフも山と聞いているはずなのに、幼馴染みの口から出るとまた違った。

「八年ぶりに再会した相手にあれはないだろ……。驚いて卒倒するかと思った」
「ごめんごめん。でも嫌じゃなかっただろ?」
「それは……」

 抵抗しなかったのは司があまりに酷い顔をしていたからだ、などとはもちろん言えずに信は口を閉じた。
 秋二と出会って本物の恋というのがどういうものかを知った今、司に対しての感情はそういった類のものではなかったと確信している。それでも、そんなことは言えなかった。
 気まずいなあ、と思いながら別の話題を探していると、時間切れになって司が同じような話を続けた。

「信くん、今彼女とかいんの?」
「いないけど……」

 司の問いに、信は曖昧に答えた。
 秋津とはすでに破局している。
 厳密に言うと森とそういう関係にはあるが、詳しく説明したらボロが出そうなので黙っていた。

「彼氏はいるとか?」
「いないよ」
「え、両方いけんの?」

 軽い感じで聞いてきた司に、信はちょっと口をとがらせて答えた。

「君がそうしたんじゃないか……」

 司は信の初めての相手だった。中学時代に相手の家に泊まったときにキスをされて、そういう関係が始まったのだ。
 それまでも男に何となく惹かれていた信のセクシュアリティを決定的にしたのは、そのときの電撃のような性体験だった。

「ははっ、悪ィ悪ィ。確かにそうだったな」

 謝りつつも、全然申し訳なさそうな表情ではなかった。むしろ嬉しそうでさえある。

「じゃあおれが初めての男?」
「そういうふうに言うなよ……」

 突然の別れが訪れた高校二年まで最後の一線を越えたことはない。しかしそれに限りなく近いことはしていた。だから司の言葉は間違っていないだろう。
 そして彼との経験が図らずも、玉東ですべてを奪われようとしていた信を救うこととなった。
 ある程度の性経験があったおかげであの地獄のような日々を乗りきれたのだ。そういう意味では感謝していた。

「改めて考えると結構うれしいな」
「もうやめてくれる?」

 ニヤついて顎を撫でている相手に言うと、相手は真顔に戻って信に聞いた。

「今、何やってんの?」
「大学、通ってる……」

 そこで鯛の向附がくる。
 文句なくおいしい。

「いいなあ。夏休みメッチャ長いだろ?」
「びっくりするぐらい長いね。怠け癖がついてしまいそうだ」
「春も長いだろ? おれも戻りてーなあ、大学」
「忙しそうだね」
「もー使い倒されてる……。社畜だよ」

 司は嘆かわしげに首を振ってホタテにフォークを突き立て、口に放りこんだ。

「明らかに人手不足なのにさあ、どんどん採用人数減らしやがって……」
「どこも不景気だもんね」
「いやでもある程度は余裕あるはずなんだよ、うちは。なのに人件費削るって……って、ごめんな、早々こんな愚痴っちゃって」

 信は首を振った。

「いいよ。聞かせて。心配だったんだ」
「いや、もうこの話はいいかな。でも思い出すなー、いろいろ。中学ンときの研修旅行で糸川に悪戯したの、覚えてる?」

 学生時代に生徒全員に嫌われていた教師を思い出しながら、信は相槌を打った。
 糸川教諭は基本的に子供が嫌いな社会科の教師で、授業のたびに生徒の粗探しをして嫌味を言うような男だった。
 どんな正答でもケチをつけるし、誤答ならばなおさらである。
 それで意趣返しに悪戯しようと言い出したのは確か右京だった気がする。

「うんうん、覚えてる。夜中に部屋の窓叩いたり、部屋の人形の向き変えたり、トイレで怖い声が入った動画再生したり……。よく考えると結構問題児だったよね」
「いーんだよ。アイツ普段生徒イビり倒してたんだから。天罰天罰」
「確かにあの時を境にちょっと変わったような……」
「ハハッ、意外とビビリだったよな」

 以前のように明るい表情を見せるようになった司にほっとしながら、信は相槌を打った。

「怖いの苦手だったのかも」
「あのいばりくさってた糸川がねえ。傑作だな」
「ふふ、今となっては申し訳ない気もするけどね。でも当時はそんなことも思わずにやっちゃって……」

 他愛ない思い出話をしながら、信は、きっと前回は疲れていたんだな、と思った。今日の司はまるで昔に戻ったかのように快活で明るい。
 彼の言ったように仕事が忙しくて寝不足だったのに違いなかった。

「あの頃が一番楽しかったかもしれないとか、最近思うんだよな」
「充実してたよね。右京くんとか、秀くんとか、どうしてるかなあ」

 すると司が答えた。

「右京は留学してブラブラしてる。院でいろいろ研究してるとかなんとか言ってるけど絶対遊んでるだけだぜ、あれ。秀は会社。ゆくゆくは家業継ぐらしいけど今は反抗期なんじゃね?」

 司と同じく幼稚園からの幼馴染み、篠宮秀嗣の実家は代々呉服屋を営んでいた。よくお邪魔して、着物を借りて時代劇ごっことかをしたものだ。
 そして、成人式の日には絶対に黒紋付きを着よう、と約束したのだが結局それは叶わなかった。

「そうなんだ。皆がんばってるね」
「あ、今度皆で飲もうぜ。グループラインで信君に会ったって言ったらめっちゃ会いたがってた。右京とか普段既読無視するくせに、光の速さで返事きたわ」
「あのラインまだ使ってるんだ」
「そうそう。信君の名前も残ってる」
「へえ」
「良かったら入り直して」
「うーん……」

 佑磨に司との再会を報告したところ、深入りはするなと釘を刺された。もう芦屋新として生きてくれと言われたのだ。
 確かに信の素性を知る者とあまりに深く関われば、芦屋新としての活動に支障をきたす可能性があるのはわかる。
 だが、人生で家族の次に長い時間を過ごした幼馴染みと再会したら誰だって嬉しいし、ご飯に行くぐらいは許してほしいと思ってしまうのだが。

「何か差し障りある?」
「いや……いいよ」

 信は結局頷いた。あまり自分のことを話さなければ大丈夫だろう。
 すると司は笑顔になった。

「良かった」
「司君は今会社?」
「そう社畜。はあ、働くのヤんなるよ」

 なるほど、司がどことなく元気がないのはこういうわけだったのか、と内心納得する。

「あ、ごめん。愚痴っちゃって」
「いいよ。ずいぶん大変そうだね」
「まあなー。もー毎日接待接待で……あの日もそうだったんだけど……。そういや信君はあのとき何してたの? 教授の食事会とか?」
「まあそんなとこかな」

 二人はそのあとしばらく思い出話に花を咲かせた。
 以前のように明るい表情を浮かべて冗談を言うようになった司に、つられて気分が明るくなる。
 司も色々あったんだろうなあ、と内心思いながら話しているうちに夜は更けていった。

 ハッと我に返って時間を確認すると、いつの間にか九時近くなっている。そろそろお開きかな、と思ったそのとき、司が不意に真剣な表情になって、グラスをテーブルに置いた。
 何か来そうだな、と身構えると、相手はとんでもないことを言いだした。

「酔っぱらってする話でもないんだけど……ずっと、聞きたかったことがあるんだ」
「………」
「聞いても、いい?」

 それは修辞疑問文だった。
 信が何と答えようと司は言うだろう。そのぐらいの気迫があった。
 相手の気迫に圧されて何も言えないうちに、司は話を進めた。

「おれ、初めて信くんに会ったときさ、この子と結婚するって思ったんだ。まあ、一目ぼれってやつ?」
「そうなんだ……」

 そうなんだって何だ、と自分に突っ込みつつ、信は次の言葉を待った。

「うん。だから、半端な気持ちでちょっかいかけてたんじゃないって、わかってほしくて……」
「………」

 司は頷くと、身をのり出して信の目をじっと見つめた。

「おれはさ、あの頃信くんのこと、すげー可愛いと思ってた……。で、そのあと色んな女と……男とも、付き合ってきたけど、ずっと忘れられなかった。
 言いたくないなら何があったかは聞かない。でもこうやって再会できて……マジで運命だと思う。だから、また昔みたいになりたい。それ以上にも……」

 その突然の告白に頭が混乱していた信は、咄嗟にわけのわからないことを口走ってしまった。

「あの、だいぶゴツくなっちゃったけど?」
「ゴツいってほどじゃないだろ。まあこんなに背伸びるとは思わなかったけど。確かにお父さんもおっきかったもんなあ。……それで、また会える?」
「えーと……」
「ゆっくりでいい。最初は、昔みたいに過ごせるだけでもいい」

 そこで、これまであいまいな態度で散々人を傷つけてきたことを思い出し、信ははっきり線引きをすることにした。

「友達としてなら、いいよ。でもそれ以上にはなれない」
「どうして?」
「……好きな人がいるんだ」
「付き合ってるの?」
「そういうわけじゃないけど」
「だったらチャンスをくれない? せっかくこうしてまた会えたんだしさ」
「………」

 沈黙を肯定と受け取ったらしい司は畳みかけるように言った。

「おれが忘れさせてやる」
「………」
「また昔みたいになりたい」

 信は相手から目を逸らし、無理だよ、と呟くように言った。

「何があったか知らないだろ……」
「うん。だけど、おれなら受け止めてやれる。ずっと一緒に育ってきたんだ。おれなら――」
「だから無理だって!」

 しつこい司にイライラして、信は思わず声を荒げた。
 そして言うつもりのないことを口走ってしまった。

「どこにいたか教えてあげるよ。私は玉東にいた。売られたんだ」
「まさか……」

 司の顔色が変わる。

「あそこがどういうところか知らないだろうけど」
「知ってる」

 司は暗い顔で信を遮った。

「知ってるよ。昔、上司に連れて行かれて……だから知ってる」
「だったらわかるだろ? 昔になんて戻れない。戻りたくても……。私たちはもう住む世界が違うんだよ」

 信はそこでありとあらゆる辛苦を経験し、この世で一番醜いものを見てきた。本物の地獄をみてきたのだ。
 司がおそらく一生見ることがないであろう醜悪な景色を見、この身で体験してきた。この身を千に刻まれるような苦痛の日々を送ってきた。
 だから軽々しく昔に戻りたい、などと言われると腹が立った。

 お前に何がわかるのか。
 蹂躙され、ありとあらゆる方法で嬲りものにされた人間のなにが、人間とみなされずに売られた人間のなにがわかるのか。
 人格を丸ごと否定された人間のなにがわかるのか。
 その瞬間、森の囁きが蘇った。

『汚いことなんてなーんも知らずに育った奴ら』

 司は秋津側の人間だった。
 信は唇を舌で湿らせ、言った。

「私はありとあらゆることをやってきたんだよ、あらゆることをだ。司君がとても想像もつかないようなとんでもないこともね。だからもう戻れない。わかってくれ」
「ッ………」

 信の言葉に司は顔を歪ませ、俯いた。そして消えいるような声で、わかった、とだけ呟いたのだった。


 結局その後、信が司に連絡することはなかった。
 司には一切期待させたくなかったし、あの会話で改めて別世界の人間になったと思い知ったからだ。
 司達は悪くない。ただ、境遇があまりにも違いすぎていた。
 過去の思い出が甘いほどに今の現実は苦くなる。
 自分が何を奪われてきたかがありありとわかって話していると辛くなるのだ。
 それに会ったら全てを話してしまいそうで、それも怖かった。

 右京や秀嗣は会いたがるだろうが、無事だと知ってくれればそれでいい。
 どこかで生きていると知ってくれればそれでいい。
 信がやろうとしていることには危険が伴うし、何より信の過去を知ったら彼らはあらゆゆ手段で玉東と長谷川会に復讐しようとするだろう。
 なんせ学生時代、信を妹のように可愛がっていたのだから。
 三人は信に近づく男も女も排除していた。
 そして司と信の関係を知ったときには、司が抜けがけしたと殴り合いの喧嘩になった。
 それは信が仲裁に入ってなんとか収めたが、そんな彼らが信を拉致し、売春窟に落とした人間をを許すわけがない。
 だがその人物は指定暴力団の構成員であり、非常に危険な人物だ。
 下手に手を出せば命の危機さえある。
 だから巻き込まないためにもこれ以上関わらない方がいい。
 信はそう思って幼馴染み達との縁を断ち切ったのだった。