その夜、信は珍しく昔の夢を見た。
高校時代の夢だ。
夢の中で信がいたのは慣れ親しんだ校舎の窓際の席だった。そこは、通っていた桜咲学園の高等部がある北校舎だ。
前の授業のメモをノートに補足していた信はふとペンを動かす手を止め、窓の外に視線を転じた。
そこには広々した校庭が広がっている。
その校庭の外縁と校舎側に植えられた木々は青々として初夏の風に揺れていた。
季節は初夏ーー新緑瑞々しく、木々の若葉薫る季節だった。
開け放された窓から入る甘くさわやかな香りが鼻腔をくすぐる。
信は胸いっぱいに大気を吸い込んだ。肺のすみずみまで春というものがゆきわたったような気がした。
そのまましばらく草木の香りを楽しんでいると、不意に声がかかった。
「おーい、信くーん!」
校庭から信を呼んでいたのは幼馴染みだった。
サッカーボール片手に校庭から手を振っているのは、進藤司だ。
彼はすらりとした四肢が印象的な青年だった。
サッカー部で、休み時間となれば校庭に飛び出していく生徒だった。
幼稚舎のときからそんなだったので、いつも混ざりたかったが、ヴァイオリンの英才教育を受けている信は球技全般を禁止されていた。
楽しそうでいいな、と思いながら信が手を振り返すと、司は同級生とミニサッカーをし始めた。
信は頬杖をついて、ブレザーを脱いで同級生と駆け回る幼馴染みを眺めた。
柔らかな五月の光の下で、広大な校庭の一角を走り回るエネルギーに満ち満ちた青年たちの肉体が躍動する。
それを見ていると、不意に近くに人の気配がした。
そばに椅子を持ってきて座っていたのは荒川右京と篠宮秀嗣だった。二人も幼稚舎からの持ち上がり組で幼馴染みである。
信は窓の外から室内へと目を戻す。
すると、前の椅子に反対向きに座った右京が言った。
「なあ聞いて。カラヤンの『新世界』ついにゲットしたんだよ、1958年収録のやつ。聴きたいって言ってただろ?」
「どこにあったの? ネットいろいろ探したんだけど見つけられなかったんだよなあ」
なかなか手に入らないカラヤンの二回目の『新世界』を入手するという偉業を成し遂げた猛者、右京は心持ち胸を張って続けた。
「マニアが情報交換してる掲示板調べまくった。それで、偶然落ちてるデータ拾った人が売ってるらしいって聞いてそのサイト行って買ったんだ。外人だけど」
「え、大丈夫なのそのサイト」
「本当のマニアの人でさ、布教のためもあるとかいってたから価格も良心的だったし、大丈夫だと思う」
そうは言っても、一世紀も前の、その時代でさえ入手困難だった代物がそんな安いはずがない。
ちゃんと代金は支払わなければならないと思った。
「そうなんだ……。あの、いくらくらいだった?」
「マジ安かったから大丈夫』
「でも悪いよ」
「いーって。俺もいろいろ貰ってるし」
「そう……。ありがとう」
「どーいたしまして。あとでデータ送っとくよ」
ここで断り続けてもラチがあかない。
信は後で詳しく聞くことにしてひとまず引き下がった。
すると、今度は横の秀嗣が演奏会のチケットを差し出してくる。
「ねえねえ信くん、またオペラ行かない? 『魔笛』の特別席ゲットしたよ! 来週の土曜日」
「いいね、シューベルト。この間も『未完成』聴きにに行ったし、何か最近シューベルトづいてるよね」
「そういうのはナシにしようって、この前話し合ったばかりだよな? 抜け駆けもいいとこだぜ」
信が受け取った途端に右京が不満げに言い、秀嗣を睨む。
また始まった、と内心若干辟易して幼馴染みたちを見ていると、秀嗣が返した。
「残念。君の分はないよ。悔しかったらこれ以上のモノ手に入れるんだね」
「決めただろ、ルールは守れよ」
「ルールを破るくらいじゃないと目標は達成できないものだよ」
「ダメだ。没収する。ごめん、信くん」
そう言って信の手からチケットを取り上げた右京に秀嗣が抗議した。
「返してよ」
「不可」
「返せって。軽く犯罪だぞ」
「信くんと行かないって約束したら返してやる」
「このっ……! 返せっ!」
「まあまあ」
立ち上がって争い出した二人に、仕方なく仲裁に入る。
「二人で行ってきなよ。私はいつも秀くんと行っているから今回は譲るよ」
信のことばに、右京は慌てたように言った。
「いや、行きたいというわけでは……とにかく、出かけるんだったらみんなで行けるトコにしようぜ」
すると秀嗣は舌打ちをして、グレーのチェックのブレザーのポケットからチケットの束を取り出した。
「どうせこうなるだろうと思って全員分席を確保しておいたよ。ホラ」
そして紙の束を右京の胸に叩きつけた。
「おぉー、やりィ」
「言っとくけどきっちりチケット代は払ってもらうからな。信くん以外は。信くんとは前から約束していたからいいよ」
「いや、でも……」
「いいからいいから」
信のことばを遮るようにチャイムが鳴った。
「じゃ、土曜日、行こうね。バロックと古典派の違いも分からないような素人たちと一緒なんて、魔笛並みに悲劇だけどね」
「おい、聞こえてるぞ」
「聞かせてんだよ」
右京と秀嗣のかけ合いにクスッと笑って、信は再び着席した。
ふたりがそれぞれの席に散ってゆく。
なんだかんだ仲良いよなあ、と思いながら勉強道具を取り出すようすを見る。
出会ったときからみんな変わらなかった。
傍目から見れば喧嘩しているように見えるかもしれないが、じゃれあいのようなものだ。
それぞれが超えてはいけない一線を心得ているから本気の喧嘩になることはめったにない。
だから別に仲裁に入る必要もないのだが、自分に割り振られた役は一応こなそうと思いやっているだけだった。
きっと、こんなふうにして自分たちは大人になってゆく。
こういう日常の積み重ねで人生が進んでゆくのだ。
みんなどんな大人になるのだろうか。
自分はどんな大人になるのだろうか。
未来に想いを馳せながら、窓の外で揺れている美しい青葉を見る。
来年になったら進路のことも本格的に考えなければならない時期になる。
信は音大に進むことがほぼ決まっていて、問題はそれが国内か海外かだけだった。
信をバイオリニストにしたい父は海外へ行けという。コンクールを受けまくって名をあげてほしいのだろう。
しかし、将来はソリストというよりオケに入りたい信は国内で十分という判断だった。
日本が好きだし、尊敬する先生も日本の音大にいる。
それに、みんなと会えなくなるのも嫌だった。
説得は気が重いなあ、と思いながら次の科目のノートと教科書を出したとき、不意に背中をつつかれた。
「信くん、信くん」
「なに」
背をつついてきたのは、先ほど校庭でサッカーに興じていた司だった。教室に戻ってきたらしい。
偶然席替えで席が前後になっていた。
信はまだ教師が到着していないのを確認すると、振り返った。
「オペラ行くんだって? おれも行っていいかな?」
司は爽やかな表情でそう聞いてきた。
彼は信が初めて惹かれた青年だった。
自分を窺うように少し上目遣いで見てくる相手に、頷いてみせる。
「みんなそのつもりだよ。秀くんがみんなの分チケット取ってくれたみたい」
「ほんと? あーよかった。出遅れたかと思ったよ」
途端に満面の笑みを浮かべた相手に、信は自分まで笑顔になるのを感じた。
「来週の土曜日の夜だよ。行ける?」
「もち! あ、あとあさっての試合さ、おれ、フルで出れることになったんだよ」
「えー、すごい。二年生なのにそんなに出られるの?」
「まあなー。監督が出ろって」
「すごいね! 応援いくね」
「まじ? よーしやったろ」
司は嬉しそうに笑った。
ちょうどそのとき、世界史担当の教師が教室のドアを開けた。
信は身体の向きを戻し、再び前を向いた。
五月の穏やかな風が頬を撫でてゆくのが気持ちよくて、信は目を細める。
そしていつも通り板書を始めた。
このときの信はまだ知らない。自分がオペラを聴きに行くことはないことを。
この平和で安全で守られた場所から永久に追放される運命にあることを。
残酷な裏の顔を隠した美しい新緑の世界が、青年たちを見下ろしていたーーそれは、陽の当たる世界から追放される直前の夢だった。
最後の平穏な日々の記憶。
玉東での生き馬の目を抜くような日々で忘れ去っていた記憶。それを夢で思い出した。
翌朝起きたとき、信はわずかに泣いていた。
そして、自分は何と遠くまできたのだろう、と思った。
あの時は人身売買の犠牲になって体を売ることになるとは思いもしなかった。
そして、父が早々に信の捜索をやめて再婚するとも思わなかった。
モラハラ気質で自己中な男だと思ってはいたが、まさかそこまで情がないとは思わなかったのだ。
だが、父は信が単に家出したと信じて疑わず、捜索願いすら出さなかった。
そして信の存在を消すように早々と新たな家庭を持った。
これは店にいた頃客に調べさせてわかったことだった。
そのときに、家出間際に言われた言葉ーー家から出ていけ、は父の本心だったのだとわかった。
父は、信を自分の夢、すなわちヴァイオリニストになるという夢の代理戦争をする駒だとしか見ていなかった。愛などなかった。
だから玉東で有名になっても迎えにこなかったのだ。
上流階級と交友関係がある大学教授の父が玉東に行ったことがないわけがない。
そのときに男太夫としてトップだった信の噂を耳にしなかったはずがない。
引き手茶屋にある花魁たちの写真集の中の自分を見なかったわけがない。
そこには化粧した女装姿だけでなく、男物の着物姿も載っていた。
自分とそっくりの息子を見て気づかないわけがないのだ。
だが、確認にさえこなかった。それが父の答えだろう。
完全に縁を切ったのだ。
そのことはさすがにショックだったが、信の方も母を精神虐待、もしかしたら性虐待もして死に追い込んだ父親を許していなかった。
だから母の死後はヴァイオリンの練習を放棄し、家出間際に母はお前のせいで死んだのだ、と言い放った。
多分あの時に親子の縁は切れたのだろう。
もし父が母に仕事をやめさせ、信の子育てであれこれプレッシャーをかけなければ母はうつ病にならず、死ななかっただろう。
そうであれば信は家出をせず、暴力団に拉致もされず、今頃どこかのオケで弾いていただろう。
そして年末とお盆には帰省して家族で過ごしていただろう。
司達との縁も切れていなかっただろう。
だがそうならなかった。
これが現実だし、受け止めて生きていかねばなるまい。
一度どん底まで落ちて這い上がってきた者は強い。信にはその強さがあった。
だが司達にはないし、裏社会への危機感もない。
だから下手に関われば怪我では済まないだろう。
夢の中は甘く、穏やかな世界だった。そこに司達はまだいる。
だが信はもうそこにはいない。
過去とも、司達とも訣別するときだった。
そうして、そう決意した信が再びこの夢を見ることは、以後二度となかった。